こんにちわ。理事長の塚本です。
今回は私が医師としてプラセンタを扱うようになったお話をさせて頂きますね。
20年以上前、私は、まず、内科医として一人前になりたかったのです。
その上で神経内科として、神経難病にくるしむ人たちのために病気に立ち向かったし、呼吸器、感染症、アレルギー、免疫、自己免疫疾患、そして腎臓病の勉強もしました。
私が大学に勤務していたころ、西洋医学では、抗うすべのない病がありました。
がん以外にも、不治の病はたくさんあって、病の数だけ、苦痛があったのです。
せめて、患者さんの苦痛をへらすことだけでもしたかったが、それも敵わない場合も多かったです。
だから、一抹の可能性に賭け、漢方を学びました。
しかし、漢方でも、助けることのできないケースがありました。
大学を出て、一般病院に就職したとき、栄養医学と抗老化医学を学びました。
栄養学を学んだのは、がんの人やパーキンソン病などの神経難病の人は、栄養状態が悪くなると、必ず良くないことが起こることが経験されていたから。
抗老化を学んだのは、神経難病の人は、加齢とともに病気が進行してゆくから。
老化をとめればひょっとしたら!?なんて考えでです。
アルツハイマー病だって、そもそも老化を止められたら、病気にもならないハズと考えたのです。その抗老化医学を学んでいるときに、プラセンタに出会いました。
大学時代にも、見聞きしてはいたが、当時は、「そんな美容につかうような、正体不明のもの」で、難病の患者さんが良くなるわけがない!とうそぶいていました。
しかし、抗老化学会の会場で出会った医師は、存在自体が、私の中の常識を凌駕していました。
当時、60歳をすぎたくらいにしか見えなかったその先生は、実際には、80歳だったのです。
老眼もすすんでおらず、耳もよく聞こえ、よく呑み、よく笑い、よく食べてました。
髪の毛も黒くふさふさで、歯もすべて、自前の歯。入れ歯、差し歯は一本もありません。
この先生は、本来は外科が専門だったが、諸外国を留学していて抗老化医学に出合っていたのです。
「自分に施せない医療を患者に施せるわけがない」という先生の言葉には大いに感銘を受けたものです。
私は、その先生を師とあおぎ、事あるごとに質問し教えを仰ぎました。
その80歳になる医師が60歳くらいにしか見えなかった=老化をとめていた医学に大いに興味をもち、なんとか教えてもらうか、技術を盗むかあるいは、せめてヒントだけでもと思い、その先生に近づいたわけですが、意外と簡単に答えを教えてもらっちゃいました。
「プラセンタをキチンと打つ」むしろ、拍子抜けもいいところ。
以前の私では“眉唾”とばかりに、相手にもしなかったでしょう。
ところが、抗老化医学を学んだ後では、その意味が違います。
大学にいたころは、知識もないくせに、偏見で、眼もくれなかったものが、キチンと学んで、研究すると「抗老化のもっとも大きな技術がプラセンタだったのだ。」ということが、にわか真実味を帯びてきます。面白いことに、先生の奥様が65歳くらいに見えます。
「姉さん女房」だと思っていたら、なんと、同級生だというのです。奥様は、眼科の現役医師でしたが、一昨年前に、引退されてます。
先生が60歳に見え、奥様が65歳にみえるのです。その元となる話を飲み会の席で、奥様から聞けました。
曰く「この人が還暦(=60歳)を機にプラセンタを始めたの。看護師に週に1回打たせていて、私はそんなの効くわけないじゃない!・・・って笑っていた
のだけど、5年もすると、差がついちゃったのね。皺の数(笑)だから、私も、あわてて始めたわけ。でも、5歳は縮まなくて、ずっとそのまま。だから、うちにくる若い先生に、はじめるなら早いほうが、絶対いいって! いうわけよ・・・」です。
恩師とあおぐ先生も、一昨年前、前立腺癌で逝去されました。
91歳で棺おけにはいってるわけだが、死人にはみえないくらいおでこが艶々していました。
私にとって、プラセンタで老化を止めている例を、直に、この眼で見ることができたのが大きな収穫だったわけです。
そして、開業したら、必ず取り組もうと心に誓ったわけです。
その2に続きます~